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歴史や成り立ちによる違い(戦前期)

探偵および興信所の歴史は、明治時代までさかのぼります。

明治維新後、殖産興業の名のもとに商工業が盛んになり、商業活動を行う上で取引先の信用調査等の需要も増え、欧米にならい日本でも数々の興信所が誕生していきます。

1892(明治25)年、大阪において日本で最初の興信所である「商業興信所」が誕生しています。

商業興信所は、日本銀行の理事であり、関西実業界の元老である外山修三が設立したもので、日銀と大阪の銀行団が出資した半官半民的な色彩の濃い興信所でした。

一方東京でも同年、1982(明治25)年に民間人の白鳥敬之助が「商工社(現東京商工リサーチ)」を設立しています。

次いで、1896(明治29)年には、日本の株式会社の始祖で第一銀行頭取の渋沢栄一が「東京興信所」を設立します。

東京興信所も大阪の商業興信所の設立経緯と同じで、日銀と東京の銀行団が出資したもので、後の1944(昭和19)年に、この2社が合併し、「東亜興信所」と改称しています。

さらに1900(明治33)年、後藤武夫が「帝国興信所(現:帝国データバンク)」を設立、1902(明治35)年には内尾直二が「人事興信所」、1906(明治36)年には藤山雷太が「東京商業興信所(現:東商インクワイアリー)」をそれぞれ設立しました。

一方、日本で最初の探偵は、「なにごとにもかかわらず、公衆の依頼を受け、秘密事件を探知して依頼者に報告する」という宣伝文句を掲げて、東京日本橋に設立された「探偵社」だと言われています。

そして、1895(明治28)年に、「日本にも外国の私立探偵を」という志のもと、岩井三郎が東京日本橋に「岩井三郎事務所」を設立しています。

この岩井三郎事務所こそが、私立探偵の草分け的存在と言えます。

また、昭和になってからは、日本最初の女性調査員である「天野光子」や「芹沢雅子」もこの事務所で育成されています。

岩井三郎は、警視庁に入庁後、刑事として数々の事件に携わり、そのままいけばかなり出世した人物だと言われていますが、30歳過ぎに捜査主任を退官し探偵になっています。

退官の動機として、ある重大事件の犯人を取り逃がしてしまい、犯人が北海道にいることがわかったものの、管轄違いで追跡許可が下りなかったため、欧米の私立探偵のように自由な立場で事件を追ってみたかったという逸話もあります。

実際にその後、「古川炭鉱詐欺事件」、「シーメンス事件」など、その他いくつかの重大犯罪に関する調査も手掛けています。

今では探偵が犯罪などの刑事事件にかかわるということは、まずありえませんが、警視庁出身者ということもあり当時はそうしたこともある程度許容されていたのかもしれません。

こうした岩井三郎の活躍が、後々、小説などで、殺人事件等の刑事事件を解決する探偵というイメージが良くも悪くも定着した一因ではないかと個人的には考えます。

商工業発展を背景に、企業の信用調査を看板にしていた興信所でしたが、もともと信用を重んじ、経営者の商道徳もしっかりしていた当時としては、今ほど興信所の利用価値が認められておらず、次第に個人の雇用調査結婚調査も扱うようになります。

しかし、そうした個人の調査もそれほど振るわず、いわゆる紳士録(著名人の情報を掲載した書籍)の出版を行う興信所が大勢を占めていきました。

この傾向は、昭和40年前後まで続き、紳士録商法と呼ばれるように、興信所に負のイメージが付きまとう一因ともなりました。

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